天和鉱山跡(天和銅山跡)について

天和鉱山跡の説明板

天川村和田に設置されている看板の内容をご紹介します。

天和鉱山跡(天和銅山跡)

 紀伊半島は山ばかりの半島ですが、地下資源に恵まれず、若干の銅鉱山が見られるだけです。しかし、この看板の向こうに見える天和山(標高1284.7m)の中腹で採掘されていた天和銅山は、江戸時代中頃から幕府の直轄で開発され、65%という高含有率の銅山として名高く、明治前半期に最盛期を迎えて近代国家の発展を支えました。その天和銅山の隆盛に刺激されて、明治の後半期になると、この土地の資産家などによってあちこちの谷で鉱山の開発が試みられました。しかし、天和銅山に匹敵する鉱脈はほかに発見出来ずに終わっています。そうした鉱山試掘穴が村内に多く残っています。

 天和銅山は、和田から入る天和谷と栃尾から入る桑ノ谷を含めての地域で、和田の福智氏の先祖が赤くなっている天和山を不思議に思って山頂に登り鉱脈を発見したとか、炭焼きの人が発見したとかいわれています。採掘が開始されたのはいつかはっきりしませんが、江戸時代の中頃には始まっていたようです。全盛期は明治の前半で、多い時には全国から来た2000~3000人もの鉱夫が働き、1872年(明治5年)12月に郡山藩に預けられていたキリシタンのうち20歳以上の男女がここに送られ、男子は鉱山で働かされましたが、翌年4月に許されて帰国したといいます。五條刑務所の受刑者もここで働かされ、監獄も置かれていたといわれています。明治の中頃以降は土地の人も多く働いていたようです。毎日牛一頭を食用にしたといわれており、周辺には飲み屋などもできていたそうです。今、現地には坑口や事務所の跡地、墓地などが残っており、墓石には越後、愛媛の字が読み取れ、栃尾の墓地にも丹波や越前の人の墓が残っています。採掘された銅鉱石は、現地で精錬されていたので、足尾銅山(栃木県)や別子銅山(愛媛県)のように、周辺の山の木は全て枯れてはげ山になり、硫黄臭が和田集落あたりにも漂い、水は汚れ村人を困らせたと伝えられています。また山頂辺りは近年まで木が十分に育たなかったといいます。

 精錬された銅(インゴット)は馬に積まれて和田の下流の西の谷を武士ヶ峯へと登り、矢八ヅ峠から西吉野に下って五條へと運ばれました。最盛期には毎日50~60頭もの馬が使役されたといいます。この銅山は、江戸時代には幕府の直轄でしたが、1871年(明治4年)以降は薩摩の政商・五代友厚(大阪商工会議所の創始者)の経営になり、1889~1890年頃がもっとも盛況だったといいます。以降、明治中期に一時休鉱した後、再び採掘され、昭和初期から1942年までは日本窒素が所有し、そのころの従業員の2、3割は土地の人でした。1955年に休鉱して現在に至っていますが、今は三菱マテリアルの所有となっています。

 「天和谷には、今も事務所跡の石垣や坑道跡、墓石、精錬所跡などが残っていますが、ほとんどの坑道への入口は崩壊し、唯一残っている坑道入口も坑道への道が崩れ、中には水がたまり、入ることはできません。」

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